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【完全保存版】第一次バス釣りブームの熱狂を再訪!時代背景、火付け役、伝説のタックルから現代への影響まで徹底深掘り

釣りコラム

多くのベテランアングラーの記憶に鮮烈に刻まれ、日本の釣り文化に革命をもたらした「第一次バス釣りブーム」。それは単なる流行を超え、一つのカルチャーとして根付き、現代のフィッシングシーンの礎となりました。この記事では、あの熱気に満ちた時代を多角的に掘り下げ、ブームが起こった必然性、社会に与えた衝撃、そして今なお色褪せないその魅力と意義を、当時の空気感とともに詳細に紐解いていきます。

この記事を読めば、あなたは第一次バス釣りブームの証人となる

  • 第一次バス釣りブームの正確な時期と、それを育んだ特有の社会背景
  • ブームを点火し、全国へと燃え広がらせた複数の「火付け役」たちの詳細
  • 当時のアングラーたちが憧れた、伝説的なタックルやルアーの具体的なモデルとその魅力
  • 釣り場の雰囲気、情報収集の方法など、当時のリアルなバス釣り事情
  • 第一次バス釣りブームが、現代の釣具技術、釣り文化、さらには環境意識にまで与えた深遠な影響
  • ブームが一時的に終息した理由と、その後の第二次ブームへの繋がり

第一次バス釣りブームの黎明期:1970年代後半~1980年代初頭という「時代」

第一次バス釣りブームが花開いたのは、主に**1970年代後半から1980年代初頭(おおよそ1976年~1983年頃)**とされています。この時代は、日本がオイルショックを乗り越え、安定成長期へと移行しつつあった時期。国民の生活水準が向上し、「モノの豊かさ」から「心の豊かさ」へと価値観がシフトし始めた頃でした。

週末の過ごし方も多様化し、若者たちは新しい刺激や自己表現の場を求めていました。サーフィンやスケートボードといったアメリカ西海岸発のカルチャーが若者の心を掴んだように、「バスフィッシング」もまた、その洗練されたスタイルとゲーム性の高さから、新しい時代のレジャーとして急速に受け入れられていったのです。テレビではアメリカのドラマや映画が日常的に放送され、そこから垣間見える広大な自然や自由なライフスタイルへの憧憬も、バス釣り人気を後押ししたと言えるでしょう。

熱狂への導火線:ブームを加速させた「火付け役」たち

単なる新しい釣りというだけでなく、社会現象にまで発展した第一次バス釣りブーム。その背景には、いくつかの強力な「火付け役」の存在がありました。

  1. 漫画『釣りキチ三平』– 全国少年少女の心を鷲掴みにした衝撃 矢口高雄先生による不朽の名作『釣りキチ三平』(1973年~1983年週刊少年マガジン連載)の影響力は計り知れません。主人公・三平三平が、日本各地、時には海外の秘境で多種多様な魚たちと知恵と技を尽くして渡り合う姿は、多くの読者に釣りの奥深さと冒険心を植え付けました。 特に、「O池の滝太郎」や「イトウの原野」といった長編エピソードは伝説的ですが、バス釣りに関しては「地底湖のキノシリマス」編で登場するブルーギルや、「カナダのサーモンダービー」編の道中で描かれるブラックバスとの出会い、そして何より**「古沼のヌシ カルデラの青鮒」編**などで描かれた、ルアーを駆使してバスを釣るシーンは強烈でした。三平が使うルアーの数々(ウォータードッグ、バスジャッカー、リバーラントなど、作中でのオリジナル名も含む)は、子どもたちの想像力を掻き立て、近所の野池や川で「見えざる大物」を追い求める原動力となりました。1980年から始まったアニメ化は、その人気をさらに加速させました。

  2. 舶来文化への強い憧憬 – アメリカンタックルの魔力 当時の日本にとってアメリカは、豊かさと先進性の象徴でした。バスフィッシングはそのアメリカからやってきたスポーツ。カラフルで機能美に溢れるルアー、精密機械のようなリール、専門化されたロッドは、所有するだけでステータスを感じさせるものでした。 **ABU(アブガルシア)**の赤いアンバサダーリール、**Fenwick(フェンウィック)**のイーグルマークが輝くロッド、**Heddon(へドン)Rapala(ラパラ)**といった歴史あるルアーブランドは、まさに憧れの対象。ビル・ダンスやローランド・マーティンといったアメリカのバスプロの映像や写真が雑誌を飾り、彼らのテクニックやスタイルは、日本の初期バサーたちの格好の教科書となりました。

  3. 専門誌とメディア – 未知なる世界への水先案内人 『月刊つり人』や『フィッシング』といった既存の釣り雑誌が、バス釣りの特集記事を組むようになり、その魅力やテクニック、タックル情報を発信。これにより、一部のマニアのものであったバス釣りの情報が、より広範な釣り人層へと届けられました。 特に、初期のバス釣りシーンを牽引した村田基氏のようなカリスマ的アングラーが雑誌やビデオ(当時はまだVHSも高価でしたが)を通じて発信する情報は、多くのフォロワーを生みました。彼らが紹介する新しいルアーやテクニックは、週末の釣行で試さずにはいられないものでした。

第一次ブーム期のバスフィッシングスタイルと伝説のタックル

現代の洗練されたタックルとは趣が異なりますが、当時のタックルには独特の魅力と、アングラーたちの試行錯誤の歴史が詰まっています。

  • フィールドの息吹:まだ見ぬパラダイスを求めて 当時はまだバスアングラーの絶対数が少なく、関東では芦ノ湖や河口湖、関西では琵琶湖や生野銀山湖などが初期のメジャースポットとして知られていましたが、それ以外の多くの湖沼や野池は手付かずの状態で残されていました。情報も限られており、地図を片手に新しいポイントを開拓する楽しみがありました。「行けば釣れる」と言われたような、夢のようなフィールドも実在した時代です。釣り禁止の場所も現在ほど多くなく、比較的自由な釣りが楽しめました。

  • 憧憬のタックル – 一生モノの輝き

    • リール:
      • ABU Ambassadeur(アブ アンバサダー): まさに王道。丸型リールの完成形とも言える5000、5000C、5500C、そして小型の2500Cなどは垂涎の的。あの独特のクラッチ音や、使い込むほどに味が出る堅牢な作りは、多くのバサーを虜にしました。
      • 国産勢: ダイワ精工(現グローブライド)の「ファントムシリーズ(特にマグサーボ搭載機)」や、シマノの「バンタムシリーズ」は、国産技術の粋を集めた名機として、ABUに続く人気を博しました。
    • ロッド:
      • Fenwick(フェンウィック): グラスファイバー製のHMGグラファイトロッドなど、そのしなやかさとパワーは一世を風靡。「黄色い竿」として知られるイーグルシリーズは、多くのバサーの手に握られました。
      • Lew’s(ルー): スピードスティックシリーズは、その独特のグリップ形状と軽快な操作性で人気でした。
      • 国産勢: NFT(日本フィッシングタックル、後のシマノに吸収)の「バスライズ」や、オリムピック釣具(現マミヤOP)のロッドも、手の届きやすい価格帯と確かな品質で支持されました。素材はグラスファイバーが主流で、徐々にカーボンコンポジットや初期の低弾性カーボンロッドが登場し始めた頃です。
    • ルアー – 一投に夢を乗せて:
      • Heddon(へドン): ザラスプーク、ラッキー13、クレイジークローラー、マグナムトーピードなど、トップウォータープラグの代名詞。その造形美と実績は、今なお多くのファンを魅了します。
      • Rapala(ラパラ): バルサ材で作られたフローティングミノー(オリジナルフローターFシリーズ、シャッドラップ)は、そのナチュラルな泳ぎでバスを魅了しました。CD(カウントダウン)シリーズも定番でした。
      • BALSA-50(バルサ50): スポーツザウルス社(当時はザウルス)の則弘祐氏が生み出した国産ハンドメイドバルサ製ルアー。その美しい仕上げと釣果は、高価ながらも多くの熱狂的ファンを生みました。
      • その他輸入ルアー: Arbogast(アーボガスト)のジッターバグやフラポッパー、Bagley’s(バグリー)のバルサBシリーズ、Rebel(レーベル)のウィーRやポップR、Mann’s(マンズ)のリトルジョージ(スピンテールジグ)なども定番ルアーとして名を馳せました。
      • 初期のソフトルアー: 当時はまだハードルアーが主流でしたが、ミスターツイスターのカーリーテールグラブや、クリーム(Creme)のスカンドレルといったワームも徐々に使われ始め、「テキサスリグ」という言葉も聞かれるようになりました。
  • 情報収集とコミュニティ: 主な情報源はやはり釣り雑誌。新製品情報やテクニック解説、釣行記などを隅々まで読み込んだものです。釣具店も重要な情報交換の場であり、店主や常連客から得られる生の情報は貴重でした。仲間内での情報交換や、手探りでポイントを開拓していく過程そのものが、大きな楽しみの一つでした。

第一次バス釣りブームが遺したもの:現代への深遠なる影響

わずか数年間の熱狂でしたが、第一次バス釣りブームが日本の釣り文化、そして社会に与えた影響は計り知れません。

  1. ルアーフィッシングの市民権獲得と多様化: それまで一部の専門的な釣りであったルアーフィッシングが、バス釣りを通じて一気にポピュラーな存在となりました。これを機に、ルアーで狙う対象魚も広がり、シーバス、トラウト、青物、ライギョ、ナマズなど、多種多様な魚種でルアーフィッシングが楽しまれるようになりました。ソルトルアーフィッシングの隆盛も、このバス釣りブームが源流の一つと言えます。

  2. 釣具産業の飛躍的発展と技術革新: 爆発的な需要の増加は、国内釣具メーカーの技術開発競争を激化させました。リールにおいては、より軽量で高感度な素材(カーボンなど)、高性能なブレーキシステム(マグネットブレーキ、遠心ブレーキの進化)、精密なギアなどが追求されました。ロッドも、高弾性カーボンの採用、多様なテーパーデザイン、軽量なガイドシステムなどが開発され、飛躍的な進化を遂げました。ルアーにおいても、プラスチック成型技術の向上、リアルな塗装、新しいコンセプトのルアーデザインが次々と登場。「メイドインジャパン」の釣具が世界最高水準と評価される礎が、この時代に築かれたのです。

  3. 「ゲームフィッシング」という概念の浸透と釣り文化の成熟: バス釣りを通じて、「食べるため」だけでなく「魚との駆け引きを楽しむ」というゲームフィッシングの概念が広く浸透しました。「キャッチ&リリース」の考え方も、この頃から一部の先進的なアングラーによって提唱され始め、資源保護への意識の芽生えが見られました。また、バスフィッシングトーナメントの原型ともいえる小規模な大会が開催されるようになり、これが後のJB(日本バスプロ協会)やW.B.S.(ワールド・バス・ソサエティ)といった団体による本格的なトーナメントシーンへと繋がっていきます。プロアングラーという職業が認知され始めたのもこの頃です。

  4. 環境問題への意識の萌芽と課題の顕在化: ブラックバスが「特定外来生物」として指定されるのはもっと後の話ですが、このブーム期から、ブラックバスが日本の在来生態系に与える影響についての議論は存在していました。一部の地域では、バスの移植放流が問題視されることもありました。釣り場のゴミ問題やマナーについても、釣り人の増加とともに意識されるようになり、釣り場環境の保全という課題が徐々に顕在化してきた時期でもあります。

  5. 地域経済への波及効果: 人気の釣り場周辺では、ボートのレンタル業者、釣具店、宿泊施設、飲食店などが恩恵を受け、地域経済の活性化に貢献する側面もありました。

ブームの終焉と次なる波へ

熱狂を極めた第一次バス釣りブームも、1980年代中盤には徐々に落ち着きを見せ始めます。その要因としては、釣り場のプレッシャー増大による釣果の低下、バスの駆除や釣り禁止エリアの増加、他のレジャーへの関心の移行などが考えられます。

しかし、このブームでバス釣りの魅力に取り憑かれたアングラーたちは、完全にフィールドを去ったわけではありませんでした。彼らは静かに技術を磨き、新たな情報を求め続け、そして1990年代に入ると、より洗練されたタックルとテクニック、そして新たなカリスマたちの登場と共に、「第二次バス釣りブーム」が到来することになるのです。

まとめ:第一次バス釣りブームは永遠のロマン

第一次バス釣りブームは、単なる一過性の流行ではありませんでした。それは、日本の釣り文化に新しい風を吹き込み、多くの人々に自然と触れ合う喜び、探求する楽しさを教えてくれた、まさに「革命」だったのです。当時の少年たちが目を輝かせて追い求めたルアーやタックルには、性能だけでは語り尽くせないロマンが詰まっています。

『釣りキチ三平』が描いた冒険心、アメリカ文化への憧れ、そして仲間たちと共有したフィールドでの感動。それらは色褪せることなく、ベテランアングラーの心に生き続けています。そして、その情熱と経験は、形を変えながらも現代のバスフィッシングシーンへと確実に受け継がれています。

もし、あなたの押入れに当時のタックルが眠っているなら、久しぶりに手に取ってみてはいかがでしょうか。そこには、あの熱かった時代の記憶が、鮮やかに蘇ってくるはずです。

第一次バス釣りブーム。それは、日本のバスフィッシングの原点であり、永遠のロマンなのです。

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